« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

松坂屋の記憶

松坂屋が今月26日をもって閉店した。松坂屋の前身、野沢屋時代を含めると144年もの歴史に幕を閉じた。閉店の前日、何度も目にしてきた思い出の松坂屋にお別れをしてきた。店内は、インフォメーションで受付をすれば写真撮影ができた。今回は写真を中心にして展開していこうと思います。(いつもブログの文が長ったらしい、読みにくい、と友人に指摘を受ける。)

Matuzakaya_009 松坂屋を外から見た様子。建物の外壁はアールデコ調で、非常に貴重な建築物ではあるが、保存の話はないようだ。夏に外壁保存の話が持ち上がっていたが、結局その後の話は聞かないので、やはり新たな商業施設に変わるようである。上層階をマンションにするという話もあるらしいが・・そういえば表参道ヒルズの上層階は、同潤会青山アパートメント時代の住民がそのまま暮らしているようだ。 こうして近代建築は惜しまれながら消えていく。

Matuzakaya_003 屋上にある看板。かなり年季を感じさせる。屋上は残念ながら、曇り空で私がかつて横浜高校の校歌を聞いた時のような青い空は見ることができなかった。屋上には、ゆずの壁画があり、キャリーバックをひいた、遠方からやってきたゆずのファンらしき人を多く見かけた。ゆずの北川もまた横浜高校の卒業生であり、岡村中学の卒業生でもある。ゆずは松坂屋前でストリートミュージシャンとして巣立ったが、閉店日に顔を見せることはなかった。

Matuzakaya_002 屋上にある野沢屋時代のなごり。よくみると蓋に野沢屋のマークがある。今回の閉店で初めて知った。左に映っているベンチに座りながら、あの日空に響き渡る横浜高校の校歌を聞いた。丁度、10年前横浜ベイスターズの優勝記念セールで松坂屋は大いに賑わったらしい。その年は、横浜高校の甲子園春夏連覇があり横浜が大いに沸いた年だった。その時のエース、松坂はドラフトで横浜入りはならなかったが、まさかMLBでここまで活躍するとは、10年前は想像がつかなかったものだ。

Matuzakaya_004 エスカレーターの装飾。シンプルながらとても味のあるデザイン。おそらくこの後にできる商業施設はエスカレーターにこういった装飾を施すことはないだろう。 昔ながらの建物は、小さなところに凝っている。 デザインのイメージは港町をイメージしたものということだろうか?

Matuzakaya_10 エレベーターの上に取り付けられている装置。針が動いてエレベーターが今ある位置を指し示してくれる。店内は閉店セール、また休日ということもあり多くの人で賑わっていたが、この装置を写真に収めている人を多く見かけた。この装置もだがこの装置が付いている土台の装飾も昔ながらのレトロなデザインが施されている。松坂屋の名物だった。

Matuzakaya_005 裏手のあまり目の付かない階段にある階を表示したプレート。これも細かい部分まで装飾が行き届いている。百貨店は昔は普段着では行かないような場所だったという。(サザエさんなんかでもデパートにいく時はカツオやワカメは普段よりいい服を着ているし、帽子を被っている)今の百貨店からしてみるととても不思議なように思えるが、確かに外壁からプレートまで洋風仕様の敷居の高い感覚の場所だったら普段着(それこそ戦前の世界になるが)である和服は場違いだから(?)正装していた。その名残が昭和30年代頃まであったのかもしれない。

Matuzakaya_006 屋上から見たイセザキモール。ここも店が次から次へとめまぐるしく変わっている。左端に映っている、不二家ビルもさりげなく近代建築の1つなのだが、何年か前にかなりきれいに1階のレストランが改装された.手前に映っている 松坂屋の別館は残るのだろうか? この日は閉店セールが手伝っていつも以上の賑わいをみせたイセザキモール。横浜駅西口にお客を奪われたとはいえ、かつての繁華街の意地があるのかこの街もなかなか頑張っているようだ。Matuzakaya_011

ライトアップされた外壁。アールデコ調の外壁の渋さを際立てている気がする。この店が閉店する頃、この店の前でゆずのストリートライブが行なわれていたらしい。今は一時より減ったものの、こういったストリートミュージシャンをよく人通りの多い繁華街でよく見かけた。03年の紅白歌合戦にゆずが出演したのだが、この松坂屋前で中継ライブを行なったという。その年の紅白は見ていないのでよく知らないのだが。イセザキモールは早朝より夜の方が賑わうが、早朝の冬のイセザキモールは、松坂屋の店の前の木の葉が落ちてアールデコの外壁がよく見渡せたものだ。冬の日が昇る頃のなんともいえぬ空の色が好きだった。

Matuzakaya_012 イセザキモールを入るとすぐマツザカヤの赤い看板が目に入ったものだった。この当たり前のような光景がもうすぐ消えてしまう。そしていつかここに松坂屋があったことさえ忘れてしまうのだろう。今回久々に松坂屋とイセザキモールを訪れて、やはりあの頃とは違う何かを感じた。屋上であの日みた横浜高校の校歌が聞こえてきた青空を見ることが出来なかったように、思い出の場所にその当時のままの景色をそっくりそのまま再現することなど不可能なのだ。 ただ数々の思い出を作ってくれたこの街と松坂屋の記憶は大切にしていきたい。

|

胃カメラを飲んでみたら

先日、胃カメラを飲んできた。胃カメラというと苦しいとか痛いとかそういうイメージもあったが、それよりも朝を抜いていることが結構辛かった。 胃カメラは昔に比べてチューブが細くなったとか、鼻からチューブを通すから負担が減ったといわれている。今回鼻からではなく、口からと言われていたものの、鎮静剤を使うと聞かされていたので、さほどナーバスにはなっていなかった。 しかし、意外な落とし穴があった。 名前を呼ばれ、平仮名で名前が書かれたリストバンドをつけたあと、胃液の泡を取る薬を飲んだ。これが独特の味がしたもののなんとか飲めた。少しして、喉に麻酔薬を入れて、1分間喉に溜めた後、飲むように言われ、充分に喉全体に麻酔薬をいきわたらせようと頭を傾けたりしたのがいけなかったのか、麻酔を飲んでそんなしないうちに、ゲップが起きたなと思ったら、しばらくしておえっを繰り返してしまった。 名前を呼ばれてもベットに向かうまで3回くらい、おえっとしていたので、しばらく休もうかと、言われベットでしばらく休み、落ち着くのを待った。「麻酔薬を飲むのは初めて?」看護師さんにそう聞かれてしまった。麻酔をこれまで体内に入れたのは今回で3回目だ。1回目は歯の治療で、2回目は今年の腰椎穿刺(髄液検査)の時で、いずれも変に体が反応したことはなかった。胃カメラを飲む前から、こんなんで検査中もだったら嫌だなと思ったのだが、幸いなことに鎮静剤を打ってから、口あてをはめられるまでの記憶しかない。「終わりましたよー。きれいな胃をしてました。」その言葉でようやく目が覚めた。Douisyo

どうやら寝てしまっていたらしい。体が疲れていたので鎮静剤がよく効いてくれたらしい。また、鎮静剤を静脈注射する前に、先生に「おえっとなりそうなので、鎮静剤を最大量でお願いします。」と伝えておいたからだろう。ただ、目を閉じているのにかすかに「力を抜いて、力を抜いて、・・そう。上手いよ。」という先生の声が聞こえていた上に、食道の辺りの違和感を感じてはいた。 胃カメラを飲み込む時だったのかそれさえ分からない。しばらく休んでいた。また深い眠りについた。 検査室を出る際に、看護師さんからデータの入った袋と注意書きの書かれた紙を渡され軽く説明を受けた。「・・今回は組織検査はしませんでした。まあ大きな異常はありませんでしたので。」 「大きな異常は」 に、完全に正常じゃなかったと?と思ったが、鎮静剤のせいかぼんやりしてあまり気に留めなかった。とりあえずそこまで苦しい思いをせずに胃カメラ検査を終えられたことでほっとしていた。

しばらくして、軽く食事をとった後、検査結果について聞くために、診察室へ入った。入ってすぐに、「検査、お疲れ様です。・・なんか結構おえっとしていたみたいだねぇ。」主治医の先生はその場にいなかったのに何故知っているのだろう?と思ったら、検査結果について書かれた紙の異常所見欄に「強い嘔吐反応」とあった。「胃ね、きれいだったよ。ただね、ポリープがあっただけ。だけど心配しなくていいポリープだから。あと2年は胃カメラ飲まなくても大丈夫。」パソコンの画面にはたしかにおできのような小さなポリープの写真が写っていた。「逆流性食道炎ではなかったということですか?」「逆流性食道炎じゃないね。薬飲んで変わった?」「以前よりはおえっとなることはかなり少なくなりました。胸焼けはまだありますが、飲み込みにくさも以前に比べれば軽くなったように思います。」そういいながら、麻酔薬でおえっとしてたのに、おえっとなることは少なくなったって矛盾したこと言ってるなと思った。だが、その麻酔薬でおえっとなった以外はほとんどその症状はなくなった。麻酔薬に体が敏感に反応しただけだろう。 「薬は出しときます。ただ辞める時は急に辞めてはいけない。一応また一ヶ月したら来て下さい。・・それとせっかく苦しい思いして胃カメラ飲んだんだから、プリントアウトするから持ち帰ってください。」と、ポリープの写真をプリントアウトしたものを頂いた。Stop_sign

特に大きな問題はないという言葉の意味が分かった。ポリープと言っても癌化する心配のないものらしい。胃酸でできるタイプのポリープらしく、本来はポリープは自覚症状がなく偶然発見される場合もあるが、私のポリープのタイプは、萎縮の少ない胃酸分泌が盛んな胃粘膜に多く発生するらしく、過酸症状である、胸焼けや上腹部痛がある場合もあるようだ。ポリープの写真を眺めながら、最近複視も酷いしなぁと思った。麻酔薬でおえっとなっていた少し前にも、看護師さんに既往症を聞かれ「フィッシャー症候群?私、消化器以外の病気は、ちょっと詳しくなくて…勉強不足ですいませんが、どんな病気なんですか?」と聞かれた。「自己免疫疾患の一種らしいのですが、物がダブって見える病気なんです。」「物が?それじゃあ、階段の上り下りとかが大変じゃない?」「はい・・。」そう話している間も、看護師さんがくっきり2つに分かれて見えていた。 複視とポリープと未だに完治していない緑膿性外耳炎と。そしてまた風邪をひいてしまった。熱があるせいか、身体がしんどい。ついでに血液検査もしたのだが、やはり抗核抗体の値が高い。それでも、4月に髄液検査とセットで受けた時よりは値は小さくなっていた。髄液検査は受けていないため、抗GQ1b抗体はどうなったのかは分からない。ただ正直な話、もうしばらく検査はしたくない。

|

深夜枠の魅力

録画していたカノッサ秋の特別講習ミシュランタイヤ編を見た。 90年代はじめに深夜枠で放送していたらしい、カノッサの屈辱の特別番組である。流行や世の流れ、商品の発展を歴史用語になぞらえて、紹介するわけで
F1を見ているわりにそこまでタイヤの変遷に詳しくなかったので、非常に参考になった。初めて見た、前回は(これも特別番組枠である)携帯電話の変遷を世界史になぞらえて紹介していた。 その動画はこちら→その1  その2  その3 その4 その5 

この時に、初めてこの番組の存在を知ったのだが、
最初は神聖ローマ帝国を神聖ドコモ帝国としていて、なんだこれは..と呆気に取られたものの、苦手だった世界史のおさらい(世界史の大まかな流れ)に併せて、携帯電話の変遷を当時を振り返りつつ楽しんで見ていた。 J-PHONEやTU-Ka PHS i-mode そういった言葉の数々をすっかり忘れていた。
携帯電話の著しい変遷は、激しい携帯電話会社の競合の賜物であろう。しかし、不思議なのは何故テレビだとすんなり頭に入って記憶に残るのだろうか? 分かった気になるだけなのか、映像という視覚効果故なのか。
深夜番組はゴールデンよりも規制が緩く、ゴールデンほど視聴率を狙わない分、柔軟な発想の番組が多い気がする。そのため、一見くだらないようで実はゴールデンよりも、よほど楽しい番組もあり、バラエティに富んでいるようだ。実際、ゴールデンに昇格した番組もある。
翌日ゆっくりできる時は、テレビ東京の土曜深夜枠のバリ・シネをよく見ている。ゴールデンでは目にできない、日本では未公開作品や、興行収入がそこまでよくなかった、いわゆるB級映画や非ハリウッドのフランス映画等に出会える点、字幕放送である点が魅力で
外が静まり返った土曜の深夜という独特の雰囲気の中、布団に潜りながら見ると言うより眺めている。作品自体は、正直なところ、さほど期待はしていない。ただこの独特の雰囲気が好きなのかもしれない。
鳥のさえずりがする頃、映画はすっと終わる。ゴールデンで放送する映画のように印象的なラストでもなく、たまに全く理解不能な終わり方をするものさえある。
この番組が終わった後の謎の花火の画像とかすかにバックに流れるイタリア人っぽい歌が、ゴールデンの映画に番組と比較して異彩を放っている。
番組が終わって、そのまま余韻に浸っていると、その後に5〜10分程度の医療情報番組、話題の医学をやっている。ある日、惰性で眺めていたらアセチルコリンレセプター というどこかで聞いた言葉を耳にしてテレビに視線を向けると、その日は脳の話だった。
フィッシャー症候群と病名がまだ分かる前、似た症状である重症筋無力症絡みでよく 坑アセチルコリンレセプター抗体という言葉を本で度々目にしていた。こんな場所で聞くとはと思ったものだが、この番組はゴールデンのいわゆる医療系バラエティ情報番組と違い、視聴者向けに易しい言葉を使うわけでもなく、血液がサラサラになるとか、癌になりにくいと言ったインパクトが強い (誰しもが気になる)
テーマを扱うわけでもなくどこかの先生が専門用語を交えながら淡々と解説する、極めて専門性が高い、いわば医療従事者向けの番組なのである。そのため、専門用語満載なだけでなく、生々しい手術の画像まで流れる。ゴールデンでないからこそできる番組ではある。

そこまで利益を優先しない上で創造されるものは、概念に囚われない柔軟な発想や発展が生まれる。そういう環境は、テレビ番組のみならず、優れたものを生み出すように思う。フランス映画は、国家が毎年シナリオ審査を通過した30人の若手監督に5000〜10000ユーロの助成金を出してくれる等、(フランスでは映画を娯楽ではなく芸術として扱っている)支援する環境にあるせいか、目先の利益よりも作りたいものを作りましたというような作品が多い。だからハリウッドのような派手なアクションを取り入れる等の演出の画一化がない。そういった点から、私はどちらかと言えば、フランス映画派だ。

|

日本人と洋服

日本GPが終わり、10月も半ばに差し掛かった。朝がだいぶ寒くなってきた。そろそろコートをおろさなくてはならない。ただ、コートは3年目になるのでそろそろ新しいコートを買おうかと考えているが、コートもデザインや価格が多様なので色々な面を考慮してどのコートを買うか考えている最中だ。冬の防寒着は多様である。ダッフルコート、Pコート、トレンチコート、革ジャン、ダウンジャケットetc。Coat

冬にドイツに行った時、同じくらいの年齢層の白人の男女4人がトレンチコートを着て立ち話をしていたのだが、コートが悲しくなるくらいさまになっていた。やはりスタイルの違いは、否めなかった。顔の大きさから足の長さ。洋服はそもそもヨーロッパ人の服装なのだから仕方ないのだが。トレンチコートにとりわけバーバリーのトレンチコートに子供の頃憧れていた。しかし、トレンチコートがどうにも似合わない点(首元が開いているので、首の長い欧米人にはよく似合うが、肩幅も貧相だと決まらない、完全に欧米人向きのコートだと思う)や値段もあって、結局バーバリーのトレンチコートは憧れのままだ。

最近は、服装の流行に国境はないらしい。少し前には日本独自の流行があった。欧米の服装の流行をスタイルが違う日本人が取り入れるよりは、日本人だからこそ似合う着こなしや組み合わせが、日本独自の流行として派生してた頃が好きだった。日本人は改良やアイディアを得意としている民族である。体型や顔立ちの違いを、工夫で上手に活かそうとした事で日本人の服装のセンスは磨かれたと聞いた事がある。 確かに、都内を歩く欧米人観光客は至ってシンプルな着こなしであるし、観光客から見て日本人は服装に対する関心が高いように映るらしい。(紫や赤の靴紐をつけるとかそういう点でさえ)
また、日本人だからこそ似合う髪型や色はあると思う。男の髪型では、短髪にして少し立てる髪型は殆どの日本人の男に似合うし、女の髪型では、まとめ髪や団子スタイルが殆どの日本人の女が似合う髪型である。欧米人に比べて、えらがはっていないので短髪や髪を上に上げる(視線を上にもっていく事でより背を高く見せる)髪型は日本人の輪郭にあっているのだろう。また同様に帽子が似合う民族である。大正時代に着物と帽子の組み合わせが大正時代の日本人男の間で流行ったらしい。和と洋の一見不釣り合いな組み合わせだが、洋を部分的に、日本人に似合う洋小物を取り入れる工夫の姿勢に日本人らしさが伺える。

ヒトラーは「我が闘争」の中に、日本は(太陽の)欧米の光なしには輝けない月のようなもの。といったニュアンスの事を書いているらしい。明治維新より急速に発展した当時の日本は、欧米からみれば単独では冴えない国のままだったくせに。と見ていたかもしれない。しかし、日本人という民族はただの猿真似をする民族ではないと思う。明治以降に欧米化をはかっても、欧米との様々な違い(住宅、気候、地理、体格、宗教等)を上手く活かしつつ、洋も取り入れてきた。自国に対する拘りがそこまで強くなかった事(柔軟性があった)が、日本が僅かな時間で成長できた大きな理由であろう。服装の流行に国境をなくす事はアパレル産業の流通には都合がいい事も、食生活の変化により、日本人の体格が年々良くなっている事も頭では分かっていても、日本独自の服装の流行がなくなっていくのはどこかさびしいのである。

|

日本GPの改善とアロンソの成長

日曜日、私用で出かけた先の駅の近くで、あるF1チームのウェアを着た日本GPの帰りらしい人を見掛けた。今年の日本GPは天候に恵まれて、去年の渋滞で心配された長時間バスを待たされる事もなく観客はスムーズに帰れたらしい。昨年の状況から言えばかなり改善されたようだ。来年は、鈴鹿で日本GPである。今のところ、来年は鈴鹿に行くつもりだ。鈴鹿と富士では富士の方が自宅から近いが、それでもやっぱりF1は鈴鹿なような気がするし、コースのレイアウトや雰囲気、何よりももう何年も鈴鹿に来ているため、来年3年振りに鈴鹿を訪れた時は、きっとやっぱり鈴鹿だなぁと思うのだろう。それだけ鈴鹿には思い出が沢山あるのだ。Bmw_f1

レースはアロンソの2連勝だったが、アロンソは今年劣ったマシンでよく頑張っていると思う。 昔は自信家のような発言が多く、あまり好きではなかったがなんというか、やっぱり現役NO.1ドライバーはアロンソなんだろうなと思わされてしまう。年上の人間なのに失礼な言い方かもしれないが、また言動が以前に比べ、大人になった気がする。ハミルトンとの昨年の一件が、アロンソを成長させたのかもしれない。昨年のアロンソは2連覇を遂げた一昨年のアロンソに比べて、一見すると散々な目に遭っていた。 しかし、アロンソより年下で、才能あるハミルトンと組む事は色々な部分でアロンソを成長させる機会があったのかもしれない。昨年の逆境はアロンソをプラスの方向に変えたように思う。だから逆境があっても、必ずしも悪い事だけではない。逆境もなんかしらで、人生にプラスにもなりうるのだろう。今年のアロンソを見ていて、アロンソがそんなに嫌いではなくなった。素直に速いドライバーなんだなと思うようになった。時間の経過は人間をつくづく変えるものだ。Bmw_f1002

フィッシャー症候群のこと 最近また複視が酷くなってしまった。あまりに2つ見えている物や人の距離が開くものだから、どちらが正しい像なのか判断がつきにくく、人の多い場所でぶつかりそうになる機会が以前より増えてしまった。多分、疲れが溜まっているのだろう。眼帯なしでも生活できていたのに、疲れがそうさせてしまったのだろうか? ただ最近、眼科でシノプトやヘス検査をしていない為、数値として悪くなっているかは確認できていない。そして次の眼科の予約日まで、まだ少し間がある。先日髪を切った時、鏡越しにどう切って欲しいか話している際に、鏡に映る自分の目が明らかにおかしい事を客観的に見てしまった。片目は黒目が中央にあるのに、もう片方の目の黒目は明らかに内側に寄っていた。見るからに異常な目であった。私の複視は改善されていないようだ。

しかし、逆境の1年がアロンソをプラスに変えたように、私のこの逆境の1年が人間的にプラスに成長させる可能性もあるのだ。勿論、それは自分次第なのだが。どんな事も、悪い事もなんかしらの意味があるのだろう。人生において無意味な事などない。散々に思える事もどこかしらに得るものがあってそれを見つけて、活かせれられれば散々な1年だってけして無駄な1年ではなかったと思えるのだろう。来年の手帳やカレンダーが店頭に並び、F1も残り2戦となった。今年も終盤に差し掛かっている。病気に翻弄されたこの1年を、プラスにできるよう、意識して生活できるよう頑張ってやろうと思う。今年のアロンソはそんな事を気付かせてくれた。

|

日本GPが近づくと思い出す事

日本GPが迫ってきている。毎年この時期になるとまるで遠足のような気分で仕度をしたりしていたが、今年は行けないため、少し妙な感覚で迫りつつある日本GPを見ている。 そういえば、行かないのは2004年以来になる。昨年、一昨年、3年前、5年前etc・・と現地で観戦したが、やはりあの独特のお祭りムードは何度行っても飽きないものだ。 決勝レースが終わると鈴鹿の秋空を毎年眺めていた。次にここに来るのはまた来年なんだな と。そんな事をしみじみと思って見ていた。来年がない等と思う事はまずない、いや普通はありえない。 Moore_03

しかし、初めて行った鈴鹿のレースの翌日の朝、私は衝撃的な記事を目にした。 ハッキネンがタイトルを決めた記事が1面を飾る一方で、スポーツ欄に小さく(スポーツ紙ではないからだろう)グレッグ・ムーアが事故死 とあった。ムーアの事は、そこまで詳しくではないが、どんなレーサーかぐらいは知っていたため、酷くショックを受けた。その日は朝から雨が降っていた。電車の窓に激しく流れている雨粒を見ながら、モータースポーツを見るようになってから初めて味わった、知っているドライバーが突然いなくなる事を受け入れられない自分がいた。一週間近く落ち込んだ。その一週間の間の空はどんより曇っている日が多かった。教室の窓から見えるどんよりした空を見ながら、「数日前には確かにムーアは同じ空の下に生きていたんだな。」とか、「まさか自分がこのレースで死んでしまうなんて、24年しか生きれないなんて想像できなかったろうな。」そんな事を考えていた。ムーアはレース前にバイクで指を骨折していたと聞いた。しかし、そのレースが所属チームでのラストレース(翌年にはチーム・ペンスキーへ移籍予定だった)ということもあり、予選には出走しなかったものの、決勝には最後尾からスタートした。もし、腕を吊るほどの怪我のために出場しなかったら、あのレースが最終戦でなかったのならば、まだまだ現役で走っていただろうか。。確率を無視すれば、人間誰しも明日が、来年がある保証などないのだ。Moore_02

訃報を知ってしばらくして、事故のレースをテレビで見た。事故があったと知っていて見るのは気が引けたが、見た、見てしまった。レース後の記者会見の場で上位3位までのドライバー(確かモントーヤがいた)が訃報を知り、泣きじゃくっていた。訃報を知ってから、必死にずっと堪えていた感情が押さえきれなくなり、テレビの前でつられて泣いていた。もてぎに来た時のうどんを食べている姿等の追悼映像は涙で途中から視界不良になり覚えていない。 あのレースを見る事は、いけないような気がしていたし、見て良かったのだろうかという気もした。ただようやく、落ち込んだ気分から立ち直れた気がした。抑えていた涙を流した事、現実的に、死を受け止める事ができたせいだったのかもしれない。セナが事故で亡くなった時、F1を見ていなかったが、当時見ていてかつファンだった人はどれだけ辛かっただろうか。近年は安全性が高まったものの、モータースポーツは、ドライバーの命が危険に晒されているスポーツであるのは間違いない。Subaru

昨年のカナダGPのクビサの大クラッシュは地上波も生中継であったため、無事が分かるまで本当に気が気でなかった。もう二度とあんな悲しい思いは味わいたくない。そう思いながら、無事を祈るレースがあまり頭に入らなかった。無事を知ってほっとしたのに、その年のベルギーGPの後、日本GPの前に今度はラリーのコリン・マクレーが、ヘリの墜落事故により亡くなったと知った。これも酷くショックを受けた。ただ、プライベートでの事故のため1年経った今でもマクレーは生きているような気がする。あまりに突然でとても亡くなった気がしない。ただ都内のとあるビルのトイレにスバルのカレンダーが貼られていたのを目にして、めくってみるとリアルタイムでは見てないものの、スバル時代のマクレーがスバルのラリーカーに乗る写真を見て、「そうだ。マクレーはもうこの世にはいないんだなぁ」とハッとした。何とも言えぬ悲しみがあった。有名なマクレーが壊れたマシンを蹴る姿、あのアグレッシブルな走りはもう見れなくなってしまった。ムーアもまたアグレッシブルな走りをするドライバーだった。秋の空を見ると、日本GPが近付くと私は彼らの事を思い出すのである。亡くなった2人には改めて冥福をお祈りしたい。Calender_subaru

|

清原の引退試合

昨夜の清原の引退試合は、まさに至れりつくせりだった。王さんの花束贈呈に始まり、スタンドにはボードを持った観客で埋まり、清原コールが起きる。イチローや長渕剛が駆けつけ、長渕の生演奏があって、チームメイトの胴上げがあり。。ここまで恵まれた引退試合はかつてなかったかもしれない。PL時代をリアルタイムで見てはいないものの、毎年甲子園が迫ると、記憶に残る選手として、桑田、清原のKKコンビが取り上げられ、直接見ていなくとも、当時2人がどれだけ騒がれたかを容易に想像することができた。 一夜明けた今朝のスポーツ紙は清原の引退試合で埋まっていた。 有名なドラフト会議の涙する姿と昨日の引退試合での涙の写真がなんとも対照的だった。 そういえばドラフト会議の司会を務めたらしい、パンチョ伊東は、亡くなったんだっけなと思い出すと、時間が流れたんだと実感せざるを得ない。

その西武が先日リーグ優勝を遂げたが、自宅からわりかし近いSEIBUで優勝記念セールをやっていた。従業員の方が被っていた紙製のサンバイザーを見て、そういえば昔西武の帽子が家にあったなぁなどと思い出した。西武の帽子をもらった時、一緒に巨人の帽子をもらったことをおぼろげながら覚えている。かなり昔にどこかへいってしまったように思うが、あの西武の帽子をもらった頃は清原が西武にいた頃で、西武の選手は知らなくとも清原だけは知っていた。それだけ活躍していたわけで、個人的には清原の黄金期はやはり西武だったと思う。 しかしドラフトで巨人にあんな仕打ち(?)をされているにも関わらず、FAで巨人に行ったのは、それだけ巨人に対する思い入れがあったのだろうし、清原自身は、巨人でプレーしていた9年間の方が気に入っているかもしれない。 Blue_sky

23年というプロ野球選手生活は、長い部類に入るだろう。PLで脚光を浴びた3年間を含めれば、約4半世紀になる。そんな長きに渡って野球を続けて、40代で引退というのは一体どんな感覚なのか全く想像がつかないが、京セラドームに駆けつけた桑田に会ったらなんと伝えたいかと問われ、「やっとお前と同じ心境になれたよと言いたい」という言葉がなんとも印象的だった。 肉体改造をし色黒になった清原の身体はPL時代や西武の頃とはまるで別人のようであるが、涙の意味は違えども清原はあのPL時代の清原と変わらないように映った。

|

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »